ネタバレ・コンプライアンス考

 私は作品のネタバレに関して、基本的にそんなことを気にする必要は一ミリもない、という(おそらくは過激な)立場をとっている。

 これはネタバレを気にする当人を批判するつもりで言っているのではない。ネタバレを気にするかどうかが大問題だ、と考えているわけでもない。私は単に、これほど「ネタバレ・コンプライアンス」が働いてしまう認知的背景自体に興味があり、その背景に関しては、いくつか批判すべき点が見つかると思っているだけだ。この問題を取り上げながら、もっと多くの人と、気軽に作品についての話ができる環境を探してみたいのである(なお、以下では一般に「鑑賞」の対象となる作品についてのみ語る。たとえばゲーム作品は「プレイ」するものであり、「鑑賞」の次元がはじめから存在しないため、この限りではない)。

 ちゃんと調べたわけではないが、「ネタバレ・コンプライアンス」がこんなに浸透している国は、日本くらいじゃないだろうか。海外の動画を見ていると、話し手が「ネタバレ(spoiler)したくない」と言う場面は見かけても、「ネタバレやめて!」と他人に言う場面にはほとんど遭遇しない。日本の場合、予防が徹底していて、たとえばFilmarks に「このレビューはネタバレを含みます」というカテゴリーが備えられているし、友人同士の会話でも「ネタバレになるけどいい?」という断りはよく耳にする。直近では「100億年LOVE」のある動画[1]を見ていたら、すでに『国宝』を観ていた3時のヒロイン・福田が映画のこぼれ話をしようとして、ラランド・サーヤに何度か止められていた。ミステリーならまだ話はわかるが、『国宝』の、しかもこぼれ話でそれなのかと驚いた。もちろんこれは、福田の語りの制御を信用しない、というサーヤのボケだし、YouTube上での不特定多数へのネタバレはまずいと考えて彼女がそう振舞った、ということなんだろうが、以降では、いつ何時もあらゆるネタバレを止めてはばからない「サーヤ」という人間を仮定して話を進める。第一にそのほうが面白いから、そして実際、潜在的にそうなってしまっている人間は一定数いると考えられるからである。

[1] https://www.youtube.com/watch?v=uczzhHi3OME. 20分あたり。

ネタとは何なのか

 「ネタバレ」というときの「ネタ」は一般に、物語の筋・展開のことである。だが、この前提はすぐに疑ってみる必要がある。まともな作品の場合、「物語の筋に全く関係ない要素」など作品内には存在しないため、結果として「こぼれ話」もまた、バレてはいけない「ネタ」として扱われるからである(上の場合)。このこと自体は作品についての注意深い理解をふくんでいて、けっして不当なものではない。ただ、この理解を徹底すると、じつは真逆の結論も出せてしまうことに気がつく。作品内のどの要素が欠けても物語の筋を十分に語ったことにならないのだから、何を喋ろうが真の「ネタバレ」はありえない、という理論である。

 筋には幹と枝葉があって、その幹の部分に思わず触れられると困るのだ、と言う人がいるかもしれない。だがそうした発想はいま受け入れられない。作品を観ていない場合、そもそも聞かされた話が幹なのか枝葉なのかはわからないからだ。したがって、1)どれが幹かわからないので、とにかく見てない作品の具体的な内容を喋らないでほしい、という人間と、2)どれが幹かわからないので、とりあえず何を喋ってくれてもかまわない、という人間に、同じ理由から二極化する。どちらにも落ち着かない人は、単にこの問題について、あまり深く考えたことがないのだと思われる。

 「ネタ」が筋の根幹に関わるどうかは、こうしてみるともはや真の問題ではない。また同様の理由から、どちらのタイプにとっても「このレビューはネタバレを含みます」という注意書きは実際のところ無意味である。「サーヤ」は注意が書かれなかった箇所でもネタバレを踏まないかを気にするし、私は全てのネタバレ投稿を踏んでいくことになる。

配慮と敬意

 とにかく言えるのは、1は重要かもしれない情報(つまり、潜在的にはあらゆる情報)を事前に聞くことで鑑賞が損なわれると考え、2はそれを聞いたところで鑑賞は損なわれないと考えている、ということである。

 1がそう考える理由は自然に推測できる。それは、前提として、鑑賞者が事前情報なしに楽しむことを意図して作品が制作された、と捉えているからである。この場合、ネタバレを自分が踏まないこと・他人に踏ませないことは、「たんにそれが不快だから」という表層的な面を抜きにすると(というのも、ここではそれが不快と思われる社会的背景を推測しているため)、制作者への配慮ゆえになされている。一方2のタイプは、制作者に対して、配慮というよりはむしろ信頼や敬意を抱いている。作品は彼らにとって、事前情報の有無にかかわらず楽しめるものであり、ネタバレを聞いていたとしても驚かされるような部分が鑑賞の対象となる。

 しかし1の場合、制作者の意図に配慮しようとすればするほど、制作者がその作品を作った意味は見過ごされやすくなるのではないかと思われる。制作者の意図通り鑑賞するということは、最終的には作品から彼らの意図を受け取ることを意味するが、それならば彼らに直に話を聞いたほうが早いからだ。もちろんそうした機会は基本的に与えられないし、彼らは正当な理由から、そういった質問に答えない場合が多い(「ネタバレ厳禁」と銘打っている場合を除き、本当に彼らが事前情報なしで鑑賞してほしいと思っているかもわからない)。この場合、制作者の意図通り鑑賞することは、直に話を聞くことの下位互換になる。

 いや、むしろ直に聞かないことで、制作者の意図を当てる「クイズ」として作品が成立するのだという、三宅香帆が好みそうな図式(彼女が言う「考察」文化)も思い浮かぶ。しかし、制作者がクイズを意図した保証も当然ないため、前提の部分で、彼らの意図を当てる作業は失敗している。結局のところ、制作者への配慮とされているものは、制作者の意図の理解としては成立しない。

 しかしここでは、成立しないほうがいい、という点がポイントであるように思われる。というのも、制作者が直接喋りかけてきたら、私たちは黙ってそれを聞いてしまうだろうし、その意図を理解しないかぎり先に進めないと思ってしまうのではないか(太田光が、日本人はコメディアンから直接話しかけられるスタンダップ・コメディが苦手だ、といった所以とこれは関連する)。そういう状態よりは、制作者の意図に、そしてそれを受け取っているであろう周囲の人間に配慮する身振りをしながら、プライベートに感想を呟くほうがずっと楽しい。「考察」とは正解を求めることだという三宅果帆の理解は、この意味ではたぶん半分以下の精度で合っている(そもそも彼女のように考える人は少ないだろう)。「考察」は正解を求めるふりをし、同時に人々に配慮するふりをしながら、個人が秘密に、また自由に言葉を発するための方法と考えるほうが自然である。

 こうしたコミュニケーションの形態は、非常に日本的であると思う。本来的には成立していない(制作者への)直接的配慮を一般的なノルマとし、その暗黙の相互監視の下でのみ、人々は間接的に自由に喋ることができる。「ネタバレ」をするテロリストは、本当のところ、制作者ではなく、人々の敵である。制作者という「尊ばれるべき者たち」の意図を汲んだふりをしない者たちに、公共空間での発言権などあってはならないのだ——もちろん、ここで制作者が真に尊ばれていないことは言うまでもない(それはよく言って自分の言葉の媒介、悪く言って便利な置物であり、作品を作った人間そのものではない)。

 一方、ネタバレを気にしない人間にとって、作品についての話ははじめから自由なものである。もちろん彼らにとっても作品は自分の言葉の媒介だが、言ってみればそれは酒の肴であって、美味しければ後のことはなんでもいい。料理長のことはさしあたり気にせず、美味しければその店自体を「信頼」する。どう美味いかを批評するというよりは、むしろ友達を連れてきたり、あるいはその肴を真似した手料理を振舞ったりしたくなるだろう。だからその店について喋るのだ。そうすることで、彼らは作者への敬意を間接的に示す。作品は、それでいくら遊ぼうが減ることのない、「まだ味がする」ネタである。だが、その天丼ネタがよほど面白くもない限り、基本的にこうした態度はマナー違反とされる。

作品の体感

 これはおそらく古いテーマで、近めに思いつくところでも、立川談志が「芸術」(=彼にとっては近代以降の日本にとっての西洋芸術)と「芸能」(本能に訴えかける芸)の区別で言わんとしていたことは、実はおおよそ1と2の作品理解に対応するように思われる。「芸能」において、実作者はけっして「芸術家」のように尊ばれることはない[2]。頂きものではなく、自分事として楽しめるもの、それが「芸能」の理想的な姿である。たしかに古典芸術についてはネタバレ云々といった問題が生じないため、二つの図式を完全に重ねることはできないが、少なくとも、ネタバレが気にされるような作品は「芸能」と見なされない、ということは言えるのではないか。わかっていても笑ってしまうのが「芸能」である(「記憶を消してもう一度見たい」という決まり文句はこのことと矛盾しないが、若干説明が面倒なため、ここでは触れるだけにしておく)。

[2]https://www.youtube.com/watch?v=O00deUonNZQ

 近年はエンタメとされる作品についてさえ、ネタバレが気にされる場面が増えているように感じる。作品自体の力が落ちているということもありうるが、それより先に、生(なま)の「芸能」を見る経験が共有されづらいという問題があるのかもしれない。

 かつて高倉健の映画を観終わったあと、彼の真似をして街を歩いた数多の男たちは、そうした生の「芸能」をこそ共有していたはずだ。しかし彼らは当然ながら、『網走番外地』の感想会などするはずもなく、黙って仕事や家庭に戻っていった。それに対して、「言語化」があまつさえ流行してしまう現代においては、鑑賞者がネット上でタグ付けしやすい(つまり多様に言及できる)要素を盛り込んだ作品が消費される。作品は鑑賞者の言語によってより記号化されている。作品がこうして記号の集積となった場合、自分が金を払って知る記号(情報)の量が減ることは、明確に損失である。したがってネタバレ(情報の簒奪)のもつ重大さは当然増す。ここまでは、どうしようもない傾向と言えるのかもしれない。ただ、制作側がこの傾向をすすんで受けいれた場合、作品を作る意味は、鑑賞者の言語への奉仕と、それを通じた収益化に終始する。それは作品が「芸能」としての意味を失うことである。

 こうした状況において、鑑賞者と制作者は助け合う必要がある。あまりに素朴なことだが、とにかく笑ったとか、物語のキャラクターに恋したとか、これで明日も生きられるとか、作品がもたらすそういった「本能」の表れをあらためて感知し、また感知させられるような環境は多いほどいい(そもそも作品に関わる人間の本望は、そういうことにあると私は思う)。

YouTubeの機能性

 動画を例にあげた上の議論とややバッティングするようだが、実際にはYouTubeは、この点ではかなり成功しているプラットフォームだと思われる。「サーヤ」のように投稿者が自己検閲している場合を脇に置くと、たとえばコメントはネタバレになることがあってもそれほど問題視されないし、むしろコメントを見渡すことで、動画がより面白く感じられる場合が多い。どんな人間がそれを見ているかを知れるし、タイミングを指定してコメントできるため、そこから遡って動画を見る楽しさがある。コメントがコメントを呼び、動画と独立した流れが起こることもある。こうしたことがストレスなく機能する場では、コンテンツの面白さがより体感され、鑑賞者自身が何に惹かれているのか(どういう「本能」を引き出されているのか)が可視化されやすい。

 これが映画や書籍になると、機能的なプラットフォームは乏しくなる。Filmarksや読書メーター、あるいはAmazonは、いわゆるレビューのメディアとして設計されているためだ(実際はそこに感想が書かれていたとしても)。もちろん便利ではあるのだが、しばしばそれらは、大方の評判や補足情報(舞台裏)、鑑賞前の確認事項(「~を期待すると外れかも」云々)を知れるという点にとどまっている。作品を体感させるという点においては、そうしたレビューではなく、気軽なネタバレを含むコメント(YouTubeのように、鑑賞との同時性(臨場感)を味わわせる遊戯的なもの)のほうがより有益であるに違いない。

 映画や書籍についてそうしたコメントを行なうことには、レビューと別種かつそれ以上の難しさがある。まず、動画に比べると長い鑑賞時間を要求するため、次に、動画に比べてより内面的な鑑賞体験と見なされているためだ。そして後者が理由で、ネタバレは私的所有権を奪う行為としてより忌避され、その結果としてコメントはよりつまらない、鑑賞してきた人間にすらよくわからないものになっていく。事実、Filmarksには個人的な「鑑賞記録」の体をとった文章が散見されるが、それらには観衆を意識した「遊び」の要素が必要とされないため、読む者を作品に送り返してくれることは稀である。結局のところ、これらのサイトではレビュー(情報提供)/個人的「記録」への二極化が進んでいくこととなる。

 これは、映像や書籍固有の性質に基づいてはいるが、他方ではプラットフォームの設計、また、その背景となる作品観に因る問題でもある。注意したいのは、映像や書籍の鑑賞が個人的と見なされているにせよ、それは作品がそのために作られたということを意味しないし、個人が鑑賞料を払うということは、作品が制作者—鑑賞者間の売買の直接的な対象であることをけっして意味しないということだ。作品は、むしろ公共的な施設として作られ、鑑賞者はその体感料や維持費を払うことで制作者を支えている、と考えたほうが実際に即している。作品の価値が、体感ないし本能の喚起に由来しているのならば、制作者が「ネタバレ厳禁」と告知してでもいないかぎり、ネタバレは作品を毀損しない。鑑賞体験へのそうした信頼を惹起するような環境が、様々な作品媒体について設けられるべきだと思う。以上のように、「ネタバレ・コンプライアンス」の背景にある問題を、私は作品の存在意義に直接関わるものとして捉えている。

 映像作品や書籍についてもYoutubeのような実装を施し、作品鑑賞の体感をより可視化することは現在の環境において可能であり、また必要でもあろう。映像や音楽ならストリーミング、書籍なら註釈つきの電子版テクストを基盤にし、各人のコメントをより整理された形で付け加えられるサービスがあってよいのではないか。ニコニコ動画のような「弾幕」ではなく、コメント投稿者の検索から、投稿者同士の議論の可視化、外部リンクの挿入、またAIによる多言語翻訳や、議論の要約を搭載する形で(もちろん作品発表から幾らかの期間を空けて)。集中して鑑賞したい人は、それらを非表示にしたり、映画館に行ったりすればよいし、書籍を手に取ることにもなるだろう。その後に、こうした気軽なコメントをまとめたサイトが見られたら大変楽しいだろうと思うのだ。それはけっして内面的な鑑賞の深さを奪うものではなく、むしろそれを掘り下げる機会になりうる。

 これらの実装は、上に述べた現代の鑑賞環境を見直し、作品をより生きた交流の場にすることに資するのではないかと思う。適切になされた場合(おそらくAIによるコメントのレギュレーションは必要だろう)、専門家の重要性を高め、鑑賞者との距離を近づけることになる。鑑賞者から作品への、より強い働きかけ(たとえばマイナー作家の発掘等)の機会ともなるし、作品鑑賞に必要なアテンション・スパンを軽減する、という側面もある。参入障壁を低くする意味で、商業的にも実りは多いだろう。

 とりわけ人文系の人間は、動画コンテンツを批判しがちなイメージがある。ただ、そこからアイデアを吸収し、それをさらに豊かなサービスへつなげていくことは彼らの価値を高めるように思われる。それに、そうした実践のメリットと危惧すべき点について熟知しているのは、むしろ彼ら自身なのではないか。もちろん、そんなマニフェストめいたことをお前はなぜくだらない個人サイトで喋っているのか、という話には、当然なるだろう。ただ、とくに同年代の人たちが読んでくれる場合、そういう大ざっぱな青写真を描いておくことも、けっして悪いことではないと思っている。

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