たしか学部3年の頃、コロナ禍が明けるかどうかという時期(「汚染」がテーマとなっている理由)にフランス語の授業で読んだエッセイです。先日パソコンを整理していたときに見つけて、あらためて読み直しました。2021年1 月28日の記事ですが、昨今の政治状況と考え合わせても重要な提起がなされているように思ったので、下に紹介します(元記事はフランスメディア AOC [Analyse Opinion Critique 分析・社説・批評])。
https://aoc.media/opinion/2021/01/28/parole-et-pollution/#:~:text=La%20parole%20pousse%2C%20pleut%2C%20coule,s’y%20d%C3%A9versant%20en%20continu.
筆者は、言葉こそ現代社会において最も汚染された領域なのではないか、という仮説から出発し、言葉を世界への(あるいは世界からの)再関与の形式と捉えます。その関与のなかに、人間の責任とケアの可能性を見出します。こうした問題意識から、後半部では、詩の重要性が確認されていく、というのが趣旨になります。こう下手にまとめると優等生の小論のようにも見えかねませんが、さきを読んでいただければ、その主張の強かさは、確かめてもらえるのではないかと思います。
さて、まず彼女は言葉の「汚染」の証拠として、いくつかの実例を持ち出します。どれも、昨今の行政やSNS上においてほとんど毎日のように見かける光景です。順にみていくと(番号は投稿者による)
1. 発せられたときではなく、公共の世界の一方的な側面において没収された (confisqués) ときに汚染をもたらす言葉がある。「滴り=トリクルダウン」、「源=リソース」、「私たち」……[※「トリクルダウン ruissellement」:富裕層がさらに豊かになれば、貧困層にも自然に富が「滴り」、経済全体が活性化する、という理論]
Il y a des mots qui polluent quand ils sont non pas prononcés, mais confisqués pour l’être sur un seul versant du monde commun : « ruissellement », « ressources », « nous »…
2. 12月10日に首相[Jean Castex]が若者たちに向けて発した、あの「いまわの際 in extremis」での貧相な言葉も汚染的だった。その演説は、若者たちに何の場所も、何のケアも、何の考慮の時間も割いていなかった。大学の再開も、学生生活の条件も問題にせず、ただ「最後に、私は学生の皆さんに特別な思いを抱いています」とだけ述べた。
Polluants aussi ces pauvres mots prononcés in extremis à l’endroit des jeunes gens le 10 décembre par le premier ministre dans un discours qui ne leur consacrait aucune place, aucun soin, aucun temps de considération ; pas question de réouverture des universités, des conditions de la vie étudiante, mais : « j’ai enfin une pensée particulière pour les étudiants ».3. 自分たち自身としか対話しない、支配的な諸科学の執拗さも汚染的である。経済学者たちは、公立病院、学校、大学の放棄が好ましい考えではなかったと気づいていながら、不変の言語の中で堂々巡りをしている――教育を「投資支出」として語り、「貧困」、「愛」、「生」といった言葉を発することができない
Polluant encore cet acharnement de sciences dominantes à ne dialoguer qu’avec elles-mêmes : lorsque des économistes découvrent que l’abandon de l’hôpital public, de l’école, de l’université, ce n’était pas une bonne idée, mais tournent en boucle dans leur langue inchangée – parlant de l’éducation comme d’« une dépense d’investissement », incapables de prononcer des mots comme « pauvreté », « amour », « vie »
これらは、行政においてほとんど不可避的に生じてしまう事態なのかもしれませんが、たとえば昨今の高市首相の発言には、より顕著な形でそれが見られるように思います(上に対応させれば、1.「円安ホクホク」発言、「日本成長戦略」などの標語、2. 「暴力は、世界のいかなる場所でも、決して容認できません」といった表明(言行不一致)、3. 「人材力」「国力」という単語の多用)。
この具体例の提示の直後に、マセは、劇作家ヴァレール・ノヴァリナ(Valère Novarina)が、かつてテレビについて語った言葉を引きます。そこで彼女たちが「汚染」と呼ぶのは、要するに「人間が、話す主体そのものが、何も語っていなかった c’est l’homme, c’est le parlant lui-même qui n’a rien dit」状態——宮台真司ならば「言葉の自動機械」と呼んだ状態のことです(なので、事柄としてはけっして最近の問題ではありません)。この場合、言葉は責任を負う者をもたず、したがって、それ自体としては物事を動かす力をもたないノイズであるはずです。けれども、大衆がこれら責任を欠いた言葉の「汚染」に慣れ、それを問題視する能力をすでに失っている場合、「汚染」した言葉を表明することは、むしろ政治基盤を安定化させるように思います。
言葉に責任を負うトップを交替させるには、その失策を言葉で追及すればよいですが、言葉に責任を負うことを知らないトップには、もはや言葉で直接的に対抗することはできないからです。半ば無意識なのかもしれませんが、現首相は、こうした言葉の力学にかなり長けた人(つまり、言質をとるのが不毛な人間として振舞うのに長けた人)なのではないでしょうか。
自分がマセと共有している問題意識は、このように、昨今の政治的問題はひろく言語の使用という観点から分析される必要があるはずだ、という点にあります。もちろん、政治法学者もこの問題に長らく取り組んできてはいるはずですが、現状、多くの場合彼らの批判は、個別の政治的判断の是非に関わるものに見えます。それに対してマセは、本来の政治的議論が成立しうる地平とは何かを問い、「そもそも言語空間をどのように捉えることが、政治的に(も)適切でありうるか」という順序で思考します。これは一見すると迂遠ですが、SNSの全域化によって大衆の言説と政治家の言説の距離が失調した現在、そこまで遡らなければ政治について有効に考えることはできない気がします。
それでは、マセはこの「汚染」と対峙するうえでどのような態度が必要だと考えているのでしょうか。
注意せよ、言葉の中の、あるいは言葉による汚染について語ることは、言語を告発することではない。ましてや、言語や表現の「貧困化」を嘆くことでもない[…」それは、言葉そのものを共有された脆弱な環境として、守るべき地帯として思考しようとする欲望である。そして、それを耕し、そこで自分自身を見出すという、その程度に応じて守ろうとする欲望である。言葉は、ケアすべき「共有物」なのだ。人々は美しい演説(「汚れた言説」もまた必要とされる)を求めているのではない。人々が求めているのは、私たちが、話す多孔質な有機体としての責任を果たすことである。言葉の行使を環境的責任として理解することである。つまり、世界について、世界の中で、私たちの間で、そして他者と共に、別のしかたで語ることである。
Attention, parler de pollution dans et par la parole, ce n’est pas accuser le langage ; encore moins déplorer un « appauvrissement » de la langue ou même de l’expression […] C’est le désir de penser la parole elle-même comme un milieu partagé et vulnérable, une zone à défendre, et à défendre dans l’exacte mesure où on la cultive et où on s’y retrouve : un « commun » dont prendre soin. Le monde ne réclame pas de beaux discours (un « sale discours » aussi s’impose), il réclame que nous exercions nos responsabilités d’organismes parlants et poreux. Que nous comprenions l’exercice de la parole comme une responsabilité écologique : que nous parlions autrement du monde et dans le monde, entre nous et avec les autres.
言葉はここで、私たちが使う道具ではなく、まずは私たちが日ごろ身を浸している「環境」として理解されています。森がそうであるのと同じように、言葉はそこを通りかかるすべての人間の手入れを必要としており、その手入れ次第で、自分や他人のための作物(=「見出す」こと、すなわち認識)が得られることもあれば、得られないこともある。もしそこがゴミだらけであっても、けっして森=言語(の変化)自体を批判すべきではない。
ならばどうやってその手入れをすればよいのか。マセは、その方法は世界に、そしてそれを写す言語のなかにあらかじめ書き込まれている、と考えています。人間は、その方法を明るみに出す言葉を、世界、そして言語のなかから聞き取ることによって、世界と正しく関与できる。
ここで、手入れの第一の実践者と見なされるのは詩人です。やや長いですが、重要な箇所なので三段落丸々引用します。
詩は、世界の事物に書くことや話すことを可能にさせる「発声器官」を発明する学問の一つ(おそらくは第一の学問)であると私には思われる。それは、新しい声、あるいは正確には(詩はそれ自体ができることにおいて正確であり、それが語ることだけを語る)「声ならぬ声」、「言葉ならぬ言葉」を迎え入れ、常に語ることの中に存在する謎に立ち向かう、構文的、発話的、韻律的、音響的な装置である。詩は、耳を傾けるための言語の舞台を設えることを古くから知っている。言葉を「与える」ことによってではない(言葉は与えられるものではなく、見出されるものである)。そうではなく、自らの構文の中で、他者が彼ら独自のやり方で記号を示すのを許容することによってである。(『自然契約(Le Contrat naturel)』は、ホメロスの声で幕を開ける。ミシェル・セール(Michel Serres)は、トロイア戦争の真っ只中、死者で溢れかえり、これほど多くの死骸を流し込まれることに不平を漏らすスカマンドロス川の声を、ホメロスの声を通じて聞かせることから始めている)。
この、環境的災厄の只中にある詩の専門性と正しさを認めなければならない。詩は自然の事物に語らせようとはしないし、耳も心もこれほど鈍い私たちに対して、自然に自ら語らせることができるとも信じていない。詩は、「それらについて、それらと共に、それらの中で(parler-d’elles-avec-elles-et-parmi)」語り、声を限りにそれらと共に語り、「耳に、目に、心に鳥たちを従えて書き、自らの意識に風を通す[6]」ことを望んでいる。
この点において詩人とは、世界から、自らを拘束する言説を受け取る者のことである。自らの文章に、風景、動物、川、廃棄物、幽霊、さらには機械、人工物、全くの見知らぬ他者の言説を混じり合わせ、そして何よりも、それらに「応答(répondre)」しようと努める。実のところ、それらに「責任を負う(En répondre)」のである。言葉をなすことを受け入れるからだ。詩人は、語る者であること、自分を通じて語られる者であること(今日、多くの人々が自然の言うことを聞くために沈黙することを求めているとしても)を引き受ける。そして、不可分に、他者を通じて語る者であること、世界を口に含んで語る者であることを引き受ける。詩人が語る者であるという事実は、誰からも言葉を奪わず、何ものをも沈黙させない。それどころか全く逆である。自分の言語の中から耳を傾け、その聴取の中に自分自身の文章を関与させるという条件、その唯一の条件においてこそ、詩人は聞くことができる。なぜなら、世界の事物を聞くためには、ただ耳を大きく開くだけでは不十分だからである。自らの言語の中に、自らの声を持って身を投じなければならない。耳を傾けることもまた、言葉を通じて行われるのである。
[6] ジャック・ドマルク(Jacques Demarcq)『揮発性の生(La Vie volatile)』、NOUS出版、2020年、6頁。
La poésie m’apparaît comme l’une (peut-être la première) de ces disciplines qui inventent des « appareils phonatoires » pour rendre des choses du monde capables d’écrire et de parler ; des appareils en l’occurrence syntaxiques, énonciatifs, métriques, sonores, qui accueillent de nouvelles voix, ou plutôt justement (précise comme elle sait l’être, ne disant que ce qu’elle dit) des voix non-voix, des paroles non-paroles, affrontant l’énigme qu’il y a en fait toujours à parler. La poésie sait de longue date dresser des scènes de langage où écouter ; non pas en donnant la parole (la parole ne se donne pas, elle se constate) mais en laissant les autres, dans sa syntaxe, faire signe à leur manière. (Le Contrat naturel s’ouvre d’ailleurs sur la voix d’Homère ; Michel Serres commence par faire entendre la voix d’Homère faisant entendre la voix du fleuve Scamandre débordant de morts, en pleine guerre de Troie, qui se plaint que l’on déverse en lui tant de cadavres.)Il faut reconnaître cette expertise et cette justesse du poème en plein désastre écologique : il ne veut pas faire parler les choses de la nature, il ne croit pas pouvoir les laisser parler d’elles-mêmes, à nous si durs d’oreille et de cœur ; il veut parler-d’elles-avec-elles-et-parmi, parler avec elles plein la voix, « écrire avec les oiseaux à l’oreille, en vue, à l’esprit, faire prendre l’air à sa conscience[6] ».
Poète est, à cet égard, celui qui reçoit du monde des énoncés qui l’obligent, qui mêle à ses phrases des énoncés de paysages, de bêtes, de fleuves, de déchets, de fantômes, et encore de machines, et d’artefacts, et de parfaits inconnus ; et surtout qui s’efforce d’en répondre. « En répondre » en effet, car le poète accepte de faire la parole. Il assume d’être celui qui parle, celui par qui il est parlé même (alors que beaucoup aujourd’hui réclameraient que l’on se taise pour entendre ce que la nature a à dire) et, indissociablement, d’être celui qui parle par d’autres, et avec le monde dans la bouche. Et le fait que le poète soit celui qui parle ne confisque la parole à personne, ne réduit rien au silence ; c’est même tout le contraire : c’est à cette seule condition – à condition d’écouter depuis sa langue, d’engager dans son écoute ses phrases à lui – qu’il sait entendre. Car il ne suffit pas d’ouvrir grand ses oreilles pour entendre les choses du monde. Il faut s’y mettre dans sa langue, avec sa propre voix. C’est aussi par la parole qu’on écoute.
ここで詩を作ることは、自己表現と見なされてはいません。詩作は、「自らの構文の中で、他者が彼ら独自のやり方で記号を示すのを許容すること」、あるいは「世界から、自らを拘束する言説を受け取る」ことです。その言説を受け取ることによって、その行為に関与している自分の姿がようやく見出されます。とまとめると、あまりにスピリチュアルというか、お前はそんなもの、本当に聞けるのか?という気分になる方がいそうですが、たとえば次のように、作曲の過程をイメージするとどうでしょうか。
作曲家は一般に、良い響きを、楽器を鳴らしながら探っていきます(耳が聞こえないベートーヴェン、なかば即興であれだけの名曲を残したショパンのようなケースもありますが、それは彼らの頭に、きわめて高い楽器演奏の技術があったから可能なのでしょう)。あるとき彼は、「これだ!」という響きに出会います。そのとき、彼はいったいなぜ「これだ!」と思えるのでしょうか。そう思うからには彼の求めていた響きだったわけですが、驚きがある以上、それは彼の内部にあらかじめ鳴っていたものではありません。その響きは、彼の内部ではなく、音階という言語に属していたのであり、楽器を使った捜索によって、その言語内における理想的な展開が見つけ出されます。それが見つけ出されたあとではじめて、彼はそれを「ほかならぬ自分が表現したかったはずのもの」として認識します。この場合、彼の求めていた答えは、音階という言語(が写す世界)から与えられています。上の引用の最後の部分において、言葉は耳を傾けるべき環境であると同時に、耳を傾けるための道具だとも考えられていますが、それはまさに、この作曲家の例と同様の意味だろうと思います。
マセはその後、より具体的にこうした「詩の専門性と正しさ」を例証しようとしていきます。そこで彼女が頼る要素は文法、ないし「統辞法 (syntax)」です。というのもそれは、言葉が自分と世界(の存在者)をいかなるしかたで結びつけ、また切り離しているかを把握することに資するから、あるいは、
それは自分が自分のどの端から、どの繋ぎ目から、どの領域からつながれているのかを、誰に、どのように繋がれているのかを、はっきりと言い、知るためのものだから。そして誰から、何から切り離されているのか、解放されているのか、あるいは奪われているのかを、誰にうまく結びついていないのか、誰から自由で、何から自由なのか。そしてそれが良いことなのか、生の中に生をより多く生み出しているのか、少なくしているのか、不在の者たちを覚えているか、どの者たちを覚えているか、そしてまったく異なる他者たちと、あるべきしかたで関わることができるかどうかを……
c’est pour dire et savoir pour de bon par quel bout de soi, quel maillon, quelle région on est accroché, et à qui, et comment ; et de qui et de quoi décroché, libéré ou privé, à qui mal attaché, libre de qui, libre de quoi, et si c’est bien, si ça fait plus ou moins de vie dans la vie, si ça se souvient des absents, lesquels, et si ça sait se rapporter comme il faudrait à des tout autres…
この意味で彼女は、詩的行為による言語のケア、すなわち「統辞法」の聞き取りこそが「絆の政治学 (une politique des liens) 」に必要であると言います。しかし、なぜ彼女はそこで「政治学」と言わなければならなかったのでしょうか。もちろんそれは、政治が人間集団の紐帯と切断を制御する機構であるからだ、とまずは言えますが、それ以上に彼女は、言葉を扱うことがすでにして政治的である、という事実に、あらためて目を向けさせているのだと思います。この場合、言葉をケアできない人間には、政治を行なうことも、政治を観察することもできない、ということになります。
また時局に戻ってしまいますが、私見では、現在の首相が辞任しようがしまいが、日本の政治状況は改善しないように思えます。公共的発言の多様性が急速に高まっているのに比べて、言葉をケアしようと思い、それを実際にケアできる人間の数、そして、そういう人間を真に増やそうとする知識層の人数が、きわめて少ないからです。
言葉をケアしようと思うには、言葉によって自分がケアされた経験、あるいは、自分が言葉をケアすることで喜びを得た、という経験が必要です。他人に褒められる(けなされる)とか、自分が社会的に成功(失敗)するということはこの際どうでもよく、ただ自分と世界が言葉によって新しく結ばれる、という経験のみが重要になります。そういう経験をもつ人、すでに世界との絆を意識している人間は、ある言葉がそれを切断している状況を、痛ましいと思えます。本来的に、教育(読み書き教育)とはそういう絆を自覚させる場であるべきですが、少なく見積もって、五十年以上は機能していないように見えます(もし本当に教育がそういう場でありえたなら、高市氏が首相になることはおよそありえないと思うからです)。言葉で何かを行う人(かつての知識層)が今より限定的であった時代には、それでも何とか持ちこたえられたのかもしれませんが、ここ二三年で、完全に底が抜けたという印象を自分は抱いています。今からでは遅いとしても、言葉をケアしようと思う人間が必要なことに変わりはない以上、そういう人たちを増やすために何をすべきかを、多くの人に考えてほしいです。
自分に照らして考えてみると、言葉が自分と世界を結ぶ、という経験はそう簡単に得られるものではありませんでした。書くことと読むことを相互に行き来することで、しだいに得られたものではないかと思います。もちろん経験の萌芽みたいなものはいくつかありました。たとえば高校の頃、後に自分をいまの俳句誌に誘ってくれた先生が、柳宗元の『江雪』(「千山鳥飛絶…」)を授業で解説したとき、不意にこの詩の視点の遠大さが実感され、慄然としたことを覚えています。どうやってそれを先生が実感させたのかうまく言葉にはできませんが、少なくとも先生がそれを実感していたからには違いありません。中学生の頃に村上龍を読んでいたことも、きっかけのひとつに思えます。あれは外国語を読む感覚に近かった。たぶんそれまで、言葉と世界は自分のなかで一つだったのですが、彼を読んだとき、言葉は世界を指示しなおすことができるんだ、という(当然その当時は言語化できない)感覚が走った。言葉で何かを表現したいという欲求が芽生えたのも、あれがきっかけだった気がします。
もちろん大学に入って、自分の書いたものがちゃんと読まれたり、外国語を読めるようになったり、院に入ってからイタリア詩を研究したりしたことは、より急速にこの絆の経験をもたらしましたが、その準備が高校まででどれくらいできていたかということは、やはり無視できない条件に思えます。
他人がテクストに込めた実感に触れることと、自分の実感を表せる言葉を求めること、その相互の経験が十分になければ、世界と自分の間に絆を作ることはできません。その二つを同時に鍛えるような教育は、ハードルが高いと見なされているのか、これまで意識的に実践されることはけっして多くなかった気がします。けれども、AI(LLM)が急速に発展している今、人間の言語をAIの言語と差異化するのは、最終的にはこの絆のみです。その絆の政治的な重要性を示すことができない場合、教育はAIに代わられ、さらにこの紐帯が断ち切られる可能性があります。それは個人の政治的力のさらなる欠乏を意味します。
自分をふくめ、ひろく人文学の活動は、この問題に対する(遅れてきた)処方箋を担うべきものだと考えています。その際、言語がケアすべき環境であるというマセの認識は、非常に重要だと思いました。実際、AIはこの意味で最も注意とケアが必要な領域であるにもかかわらず、Xなどを見るかぎり、それを前向きにケアしようとする意見はあまり見受けられないからです。むしろ現状では、対処すべき課題、もっと言うと、敵のように見なされる場合も少なくない。しかし、敵がいるとすれば、それはいつも人間であって、AIは結局のところ議論の媒介にすぎないと思います。それにもし、言葉による世界との絆をすでに実感しているなら、少なくとも当人からその実感の能力が奪われることはないので、そこについては恐れる必要がないわけですよね。だとすると、とにかくAIを取りまく言語環境をケアし、自分が持っている絆の実感を人々に伝えることに力を注ぐべきではないか、これは若いとかどうとか関係なく、この時代に生きている以上、やむをえないことなのかな、と考えています。翻訳をしてみたり、研究をしてみたり、詩を書いてみたり、創作物への長い感想を書いたりするのは、どれもそういう実感に奉仕するための営みという点で、本質的に共通しています。
マセの口ぶりからも知れるように、ケアをするということは喜びです。世界と結ばれているという感覚には充実があります。自分の実感が人に伝わったときの喜びには、代えがたいものがあります。そういう花を振りまきつづけるのが、世界から栄養を日々吸って生きる人間の義務であり、権利なんじゃないでしょうか。とつい、また偉そうなことを述べてしまいました。

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