ikeda

日記 diario

雑記(漱石)

久しぶりにフランス語のセミナーを聞き、当然ながら全く自分に関係がないはずの打上げに便乗して楽しませてもらった後、若干飲み足りない感じがして御茶ノ水の安居酒屋でひとり飲みし、運動部員の歓談を突き抜けてくる奥の風俗嬢二人の気持ちよく直接的なトーク(最近は客探しにAIを使うらしい)に聞き入り、終電間際でも平日なので適度に空いている総武線のなかで最近復刊された吉川幸次郎『漱石詩注』を開くと、漱石が病魔に見舞われていた明治43年頃の漢詩は、そういう人間には特有に沁みてくるものがあり、 桃花馬上少年時笑拠銀鞍払柳枝緑水至今迢逓去月明来照鬢如絲 栗毛の馬のうえの青年の日、笑みを浮かべつつ銀色の鞍に腰かけ柳の枝を払った。緑色の川は今も屈折しながらはるか流れ去り、月明かりが照って鬢は白糸のように、くらいの意味だろうか。各行のたたえる色彩は老いずにそこにあるので、すべてが動きのなかに描かれているということはまだあまり信じられず、だからこそ、本当には日々が過ぎ去りつづけているということはなんて瑞々しく切ないのかと思わされ、そうしてみるとこの感慨にはもはやほとんど人を選ぶところがない。 ...
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ネタバレ・コンプライアンス考(補足)

 前回書いた内容について、おそらく自分に向けられたであろう(そうでなくても)鋭い批判を目にしたので、それをふまえて考えたことをまたいくつかメモしておこうと思う。ネタバレという主題からはやや逸れてしまうが。  とりわけ映像や書籍の場合、ネタバレがこれほど忌避されるのは、作品およびそれにまつわるプラットフォームの性質上、作品を生の芸能として体感させる言葉が流通しづらく、結果として鑑賞者が情報消費的な態度に落ち着いてしまうからではないか、というのが前回の主旨だった。これは議論構成として古臭いうえに脆く、もっと厳密に考えるべきであった。批判されるべき理由はほかにもあるだろうが、思いつくところでは、たとえ作品を情報の集積と見た場合でも、だからといって作品が体感を生まないとか消費されてしまうといったことにはならない、という意見が挙げられる。事前に漏れた情報を知っていると、作品の体感そのものが毀損されるのだという異論はありえる。こうした点について書かなかったのは、字数によるところもあるが、それ以上に、体感という言葉を、自分なりの前提にしたがって用いていたからだろうと思われる。  私は...
詩 poesia

Rita Lee, Amor e Sexo(ヒタ・リー「愛とセックス」)

ブラジルロック歌手のレジェンド、ヒタ・リーの名曲を、いちおう歌えるように訳してみました。こんな歌を作れる言葉があるということに、聞くたび感銘を受けます。ぜひ、曲を流しながらテクストを読んでみてください。 Amor é um livroSexo é esporteSexo é escolhaAmor é sorteAmor é pensamentoTeoremaAmor é novelaSexo é cinemaSexo é imaginaçãoFantasiaAmor é prosaSexo é poesiaO amor nos tornaPatéticosSexo é uma selvaDe epiléticos愛は本でセックスはスポーツセックスは選ぶ愛は定め愛は考える法則愛はドラマセックスは映画セックスはイマジネーションファンタジー愛は文章セックスは詩さああ愛していると辛くてセックスは森だ引き攣る者の Amor é cristãoSexo é pagãoAmor é latifúndioSexo é invasãoAmor é divin...
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ネタバレ・コンプライアンス考

 私は作品のネタバレに関して、基本的にそんなことを気にする必要は一ミリもない、という(おそらくは過激な)立場をとっている。  これはネタバレを気にする当人を批判するつもりで言っているのではない。ネタバレを気にするかどうかが大問題だ、と考えているわけでもない。私は単に、これほど「ネタバレ・コンプライアンス」が働いてしまう認知的背景自体に興味があり、その背景に関しては、いくつか批判すべき点が見つかると思っているだけだ。この問題を取り上げながら、もっと多くの人と、気軽に作品についての話ができる環境を探してみたいのである(なお、以下では一般に「鑑賞」の対象となる作品についてのみ語る。たとえばゲーム作品は「プレイ」するものであり、「鑑賞」の次元がはじめから存在しないため、この限りではない)。  ちゃんと調べたわけではないが、「ネタバレ・コンプライアンス」がこんなに浸透している国は、日本くらいじゃないだろうか。海外の動画を見ていると、話し手が「ネタバレ(spoiler)したくない」と言う場面は見かけても、「ネタバレやめて!」と他人に言う場面にはほとんど遭遇しない。日本の場合、予防が...
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Marielle Macé, Parole et Pollution (マリエル・マセ「言葉と汚染」)——「絆の政治学」にむけて

 たしか学部3年の頃、コロナ禍が明けるかどうかという時期(「汚染」がテーマとなっている理由)にフランス語の授業で読んだエッセイです。先日パソコンを整理していたときに見つけて、あらためて読み直しました。2021年1 月28日の記事ですが、昨今の政治状況と考え合わせても重要な提起がなされているように思ったので、下に紹介します(元記事はフランスメディア AOC [Analyse Opinion Critique 分析・社説・批評])。  筆者は、言葉こそ現代社会において最も汚染された領域なのではないか、という仮説から出発し、言葉を世界への(あるいは世界からの)再関与の形式と捉えます。その関与のなかに、人間の責任とケアの可能性を見出します。こうした問題意識から、後半部では、詩の重要性が確認されていく、というのが趣旨になります。こう下手にまとめると優等生の小論のようにも見えかねませんが、さきを読んでいただければ、その主張の強かさは、確かめてもらえるのではないかと思います。  さて、まず彼女は言葉の「汚染」の証拠として、いくつかの実例を持ち出します。どれも、昨今の行政やSNS上にお...
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