前回書いた内容について、おそらく自分に向けられたであろう(そうでなくても)鋭い批判を目にしたので、それをふまえて考えたことをまたいくつかメモしておこうと思う。ネタバレという主題からはやや逸れてしまうが。
とりわけ映像や書籍の場合、ネタバレがこれほど忌避されるのは、作品およびそれにまつわるプラットフォームの性質上、作品を生の芸能として体感させる言葉が流通しづらく、結果として鑑賞者が情報消費的な態度に落ち着いてしまうからではないか、というのが前回の主旨だった。これは議論構成として古臭いうえに脆く、もっと厳密に考えるべきであった。批判されるべき理由はほかにもあるだろうが、思いつくところでは、たとえ作品を情報の集積と見た場合でも、だからといって作品が体感を生まないとか消費されてしまうといったことにはならない、という意見が挙げられる。事前に漏れた情報を知っていると、作品の体感そのものが毀損されるのだという異論はありえる。こうした点について書かなかったのは、字数によるところもあるが、それ以上に、体感という言葉を、自分なりの前提にしたがって用いていたからだろうと思われる。
私は、作品解釈が作られるには長い時間がかかり、作品の体感はその解釈の醸成とともに鮮明化するものだ、と前提していた。この場合、ネタバレがあってもなくても、一度鑑賞したのみの段階では、自分が何を鑑賞したのか、何を体感したのかはよくわからないままである。こうした感覚をふまえて、前回の投稿では作品の体感を陶酔的なものと見なしてもいた。作品を酒の肴にたとえたのはミスリーディングで冒涜的だったかもしれないが、作品を軽視する意味ではなかった。自分があえてそうたとえたのは、動画やSNSのポストをふくめ、作品を目にすることはまず消費社会における気軽な日常であり、そのうえで、そこには日常や自分を忘れさせる陶酔的な瞬間がある、それこそがのちに体感として深められる、と言いたかったからだと思う。その手助けとして、曖昧な気分から解釈が立ち上がるまでの道筋が可視化されるような仕組みが、書籍や映画についても整備されているといいのでは、と考えていた。ネタバレはその流れの中に組み込まれているが、それを消費と結びつけて考えたのは後付けの理屈であり、自分の言いたかったことに不可欠な項ではなかったと思う。
もちろん、ずっと作品に酔っているばかりでは意味がないし、その体感がもたらされる理由を知ろうとする者にとっては、本当に酔いつづけることはそもそも不可能である。ただ、作品について充分な濾過を経た言葉のみが存在すべきだとは私は思っていない。まず、原理上到達などないし、そこを厳しくすると、批評や作品制作をおこなう意味は多くの人にとって可視化されづらいから、つぎに、自分がどうして酔っていたのか、あるいは他人がどう魅了されているのか、そのとき何を思っていたのかということを意識し意味づけていくなかにこそ、作品自体との出会いがあると考えているからだ。体感の解明こそが充実した瞬間を生むなら、その道筋は、いつでもより開かれていてほしいということである。
その意味では、私は自分自身についても他人についても、なにか当座の意見そのものを信頼しているわけではないのだろう。自分が信用しているのは、ある作品が、驚くことに長けたある人に、何か驚くべきものがあることを感じさせたという事実だけなのだと思う(そのため、しばしば古典についてこの信用は生じやすい)。だから作品を取りまく話は、酒場とおなじ真剣さで聞いてしまいがちだし、察しのとおり酔いやすい自分には、それ以上に素面でいる、ということもまた難しいことなのである。

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