いきなり不謹慎なことを申し上げて恐縮だが、もしあの世へ旅立ったら自分が泣いてしまう有名人って誰だろうか、と考えると、真っ先に太田光の顔が浮かんでくる。これはたぶん自分だけではなく、YouTubeのコメントなどを見る限り、彼のファンは多かれ少なかれみんな似たような心持ちで彼の姿を見ているんじゃないか、という気がする。なんでそうなのか、ということ、これは一言では言えない。時や場所をえらばず、どんな媒体でもパワーを全開にする人なので、かえって言葉にするのは難しくなってしまう。
ただ、『向田邦子の陽射し』という本を読んでくれさえすれば、こちらの言わんとすることは、おおよそわかってくれるのではないかと思う。つまりそれは、あなたが太田光をどう思っていようが、どうも思ってなかろうが、この本はとにかく輝いているということだ。これを読んでない人間が太田光をどう批判しても、あまり説得力はないと思う。
なぜそれほど輝いているか。まず、太田の魅力は、彼が自分にとってかけがえのない人について語るときにそれが一番くっきり現れる、というところにある(ラジオで彼が語る芸談などからも、そのことはよく窺える)。同じことだが、彼はそういうものをけっして自己演出のためには書かず、ただ向田邦子からもらった、痺れるような感動を伝えたくて書いている、ということだ。
もちろん、たんに好きだ、素晴らしいと言って終わりでは全然ない。本書で彼は、むしろ彼女の作品を通して、なぜこんなものが書けるのか、彼女はどういう人間だったのか、どう自分は彼女に問い直されてきたか、夫婦って、人間ってなんなのかと真剣に考える。そうまでさせる向田の凄みを伝えるために、彼女の一番輝いている部分を精確に見定め、言葉で切り取ろうとする(太田が選んだ向田邦子ベスト10の原文が、本書には収録されている。理由もふくめて納得しきりの選出だった)。「向田さんの言葉は、殺された花達」なのだとすれば、その切れ味に見合うだけの言葉を、自分だって精一杯探さなくてはいけない。そう太田は思っているように見える。本気でそれをやろうとすると、切ろうとする者自身の核心もおのずと切り取られてしまう。
たとえば彼は向田の魅力を伝えるなかで、妻・光代との生活をこんなふうに語っている。
僕も、かみさんの言うとおりにやろうとはしているんですが、では、かみさんはなんでそれをしているかというと、僕のためなんです。最終的には僕の思いを実現するためにかみさんは怒っているという構造なんです。だから頭が上がらない。かみさんは自分のやりたいことはうっちゃっておいて、とりあえず僕のためにいろいろやってくれている。最終的には僕のわがままなんだという構造ではありますね。男は女の手のひらにのっているというような形がベストでしょうが、男は、いつかそれを逆転させたいと思っている。要するに、男は常に女を満足させたいとどこかで思っているじゃないですか。女は男のやることに絶対に満足しないんですけどね。
自分の実生活に、これほどの明晰さと愛情をもって向き合える人間は、けっして多くないと思う。だが、向田邦子について書く、というきっかけがなければ、太田のそういった魅力はたぶん表に出てこないだろう(まず、上田晋也の前では不可能になる。よくは知らないが、おそらく上田はこの本を読んでいないだろうし、たとえ読んでいたとしても、「なぁお前エッセイでも社長に墨塗られてんのか」などという、いやもちろんそれ以上の破格なツッコミをご披露するだけだろう)。
上に述べられた夫婦の関係性は、向田邦子が描く情けない「男」とよくできる「女」の姿を出発点にしてはいるものの、太田はそれを「男」の側からさらに突き詰め、向田の書かなかった地点まで向田を連れていく。そういう意味では、彼にとって生きることは、向田の死後を読むことと同じである。そもそも、太田が光代のような女性と結ばれたことだって、幼少期から親しんだ向田の引き合わせという面が、なくはなさそうだ(蓋し恐ろしい喜劇が書かれたものだ)。
話を戻すと、太田にとって向田が理解する「男」とは、現実でない何かに憧れ、それをしばしば「女」に求める存在、したがって、肝心なときには現実に行動できず、肝心でないときには口ばっかりの存在である(「言葉を花にする作家」を参照。余談だが、プルーストが描く男は、だいたいみんなそう)。光代との関係の描き方を見れば、彼のこうした理解はそのまま自身への批評でもあることがわかる。それでも彼は向田から、「そんなやつらだけれど、それがいとおしいじゃないかというメッセージ」を受け取ってきた、と何度も言う。彼女を書きながら、彼女に鍛えられ、励まされる。その結果として、たとえばこんな、目の覚めるような言葉が書かれもする。
自己表現とは、自分を表すことではなくて、自分を消すことだ。表現における自由とは、不自由を受けいれることだ。本当の自由とは、自由と訣別する覚悟をすることだ。その覚悟が相手を守り、自分を守るのだ。
向田邦子は、少女の頃から、それを知っていたのだと思う。私のようなものにとって、本当に恐ろしい表現者とは、こういう人だ。[…」
テレビその他で私を知っている人にはよくわかると思うが、私には、これが絶対出来ないという自信がある。トホホ。
たしかに太田光は一般に、何事も言わずにはいられない芸人だと思われているし、たぶん本当にそうなのだろう。だがそれが、ものを言わずにいられる表現者への「恐れ」から来ているのだとしたら、その騒がしさもまた、「不自由を受けいれ」たうえでの「自由」なのではないか。向田邦子にはなれない、というしかたではあっても、彼は向田邦子のあり方を演じてきたのではないか。
屁理屈をこねるな、と文句が出そうだが、実際、太田が手当たりしだい噛みつくだけの人間だったとしたら、面白くもなんともなかったはずだ。ふつうなら「噛みつかなくていい」ところに噛みつく、という縛りを、自分で勝手にかけているから面白いのである。彼はいつでも、「拾わなくていい」ところをできるかぎり拾おうとし、結果として、不器用で若い芸人として振舞うことになる。ただその「不器用」は、向田邦子ならば黙ったまま感じ取るはずのことが何かを、知っていなければありえなかったと思う。そして感じ取ってしまった以上、どうしても人に知らせてしまう。彼の野次や馬鹿騒ぎが自分にとって不快どころか喜びなのは、そうやって彼が凄まじいスピードで、一見他愛なく見えても本当は感じ取っていてよいはずの出来事を、呼び覚ましてくれるからだ。たぶん、多くの人が「熱さ」とか「優しさ」という言葉で指しているもののひとつには、そういう彼の感受性があると思う。「言わずとも感じとれる」人間への、ほとんど無意識の敬意が、その底にある。
この本を彼は評論のつもりでは書かなかっただろうし、自分もそうは読まなかった。だが、自分が評論めいたものを書くときひそかに理想にしているのは、こういう太田の態度だとも思った。つまり、最終的に自分がどう生きるか、ということによってしか、自分が受け取ってきた物事の質を精確に提示することはできない——そういう「不自由」な次元に立って、自分も物事を受け取りつづけたいと思ったのである。なので太田よろしく、このサイトは、他愛もないことを「ぐちゃぐちゃ喋る」ものにしていきたい。
本題である向田邦子のことも書こうと思っていたが、太田があまりに良いので、今日はつい彼の話題に終始してしまった。続きはまたそのうちに。

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