
近所の書店(Feltrinelli)でピックアップされていたので、吉本ばななの新しいイタリア語訳(訳者は今回もGiorgio Amitrano氏)を購入しました。彼女の初期(1988年)の作品で、高校の頃に読んだとは思うのですが、あらためて。
四月のはじめにはイースター(Pasqua)で大学の寮が閉まるので、近所のルッカに遊びに行きましたが、『うたかた Come un miraggio』はその宿泊先で読了しました。こういう小旅行にぴったりだなと感じます。ただ、そのせいもあってか平日に読むとあまり気分がのらず、『サンクチュアリSantuario』はようやく今日読みました。
彼女の文章にほとんどいつもある、透明な風が身体を通っていくような感覚が、Amitrano氏のイタリア語だとより強く味わえる気がします。そう思ってさっき原文を見返してみたのですが、印象の違いにわりあい驚かされました。
たとえば『うたかた』冒頭の1)イタリア語、2)自分の耳に聞こえるその日本語訳、3)原文、4)原文のClaude訳を比べてみるとこんな感じです。
Arashi e io ci siamo dati solo un bacio.
E meno male che è successo qui in Giappone perché, fosse stato all’estero, la cosa sarebbe rientrata tutt’al più nella categoria dell’amicizia. Poi lui è subito partito per andare in un paese lontano, quindi tuttora non so dire se quello che c’è stato tra noi sia stato davvero amore. Proprio non so dirlo.
(イタリア語)嵐とわたしは一度だけキスをした。
それが起こったのが、ここ日本なのはよかった。もし外国なら、それは友愛よりもずっと前の段階に入れられてしまっただろうから。それに、彼はすぐに遠い国へと行ってしまったから、いまだに私には言えない、私たちのあいだにあったものが本当に愛だったのかどうかを。そう、言えないのだ。
(投稿者による重訳)嵐とは一回キスしただけだ。
ここが日本だからまだよかったが、外国だったらそんなのほとんど友達以前の範疇だ。そしてすぐに彼は遠いところに行ってしまった。だから、私にはまだこれが恋かどうかも本当にはわからない。さっぱり、わかっていない。
(原文)Con Arashi ci siamo solo baciati una volta.
Per fortuna siamo in Giappone, perché all’estero una cosa del genere rientrerebbe quasi nella categoria degli estranei, non certo degli amici. E poi lui se n’è andato lontano, quasi subito. Quindi non so ancora davvero se quello che provo sia amore o no. Non ci capisco proprio niente.
(Claude訳)
翻訳は繰り返すとニュアンスが擦り切れてしまうので、こういう作業には問題もありますが、個人的には、原文だとぶっきらぼうで蓮っ葉な彼女が、Amitrano氏のイタリア語では、もっと落ち着いた、凛とした女性に見えてきます。この人はまだ、わからないことも多いのかもしれないが、語るものをたしかに持っているな、という感じです。だから彼女の語りに耳を傾けたくなる。逆に原文では、彼女にこれから振り回されるかも、それでもこの人につきあってみたら面白そう、というわくわくした感情が湧いてきます。いちおうClaudeにも訳させてみましたが、これでは全然読みたくなりません。どうしてこういう違いが生まれるのか、一行目を例に考えてみます。
原文冒頭の「嵐とは一回キスしただけだ。」という文章を読むと、いったい何があったんだろう?と謎がふくらみますよね。意味内容としては、「一回キスをした」だけで足りるのかもしれませんが、「だけだ。」と彼女がわざわざ言わなくてはならなかったことに、なにか「彼女なりのわけ」があることを感じ取ってしまうからです。
Amitrano氏の翻訳では、こういう主観性は文の表面には出て来ず、記述はむしろ客観的になっています。そのかわりに、「bacio(キス)」という一番大切な言葉を文の最後に引き延ばしたことで、余韻が生まれます。「それはどんなキスだったんだろう?」という謎がふくらむ。語り手の内心というよりも、事実それ自体に関心が湧いてくる。それで彼女の語りを聞こうという気になるんです。Claudeの訳では文末に「una volta(一回)」という言葉が来てしまうため、後づけの説明のように感じられ、緊張感がありません。
同じことは引用の最後でも起こっています。「さっぱり、わかっていない。」という、匙を投げたような言い方が、Amitrano訳では「Proprio non so dirlo」と、文末の目的語(lo)を最小限にとどめるところに反映されている。Claudeは「proprio niente(まったく)」を副詞的に文末に置いていますが、これだと「わからない」という事実が妙に強調され、「さっぱり」の語感が出ません。
Amitrano訳がさらに面白いのは、Claudeが訳したように、「わからない」はふつう「non capisco」なのに、「non so dire(言えない=言い方を知らない)」と彼が訳しているところです。この翻訳によって、いま問題となっているのはたんに彼女の「理解度」ではなく、彼女に起こったことが本当に「愛あるいは恋と呼びうるのかどうか」(呼びえなくても、いや呼びえないほうがむしろよいのではないか)、という、より一般的な命題であることが伝わってくる。原文で背景にある主題を、こういう単純な一語で明るみに出し、読者を惹きこんでいるんだなと思いました。文芸翻訳の技というのは、言葉の「あや」を直訳することだけではなく、むしろ、それを別の方法でサルベージする点に光るんじゃないでしょうか。
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ほかにも気づけることはありますが、きりがなくなってしまうので、翻訳についてはここらで締め、内容についてもすこしだけ。
イタリア語版への注記で吉本が語っていることが、とくに印象的でした(以下は翻訳です)。
私が作家としてデビューしたとき、あまりに少女漫画を引き合いに出されるので、結局自分でもそうだと言うようになりました。何度も繰り返されるんだったら、本当にそれを書いてみよう。こうして私の二つの短い小説が生まれました。私はそこで、自分が育ってきた、とても美しい少女漫画の世界に入ってみたのです。
私の書き方はまだ未熟で、内容からも、どこへ行ったらいいのかよく分かっていなかったことが分かりますが、そこには、若者であることの火花と、明日なにが訪れるかも知らない年代の不安が、はっきりと浮かび上がっていると思います。
この本が今日イタリア語で、Giorgio Amitranoさんの翻訳で出版されるのは、夢のようなことです。
危なっかしくて戸惑いばかり、けれどもとにかく精一杯取り組もうと決めていたあの頃の自分を抱きしめたいと思います、この私の喜びを彼女に伝えながら。
思いつく限りでは、登場人物が実存している感じがしないところ(特に男)、感情がぱたぱたと揺れるところ、それに応じて場面の色が急に変わるところなど、たしかに少女漫画の特徴を随所に受け継いだ作品と言えるのかもしれません。ただ、たとえば実存のなさというのは、自分が吉本作品を読むときにいつも感じていることでしたし、そもそも漫画におけるキャラクターと、彼女の登場人物は全然違うんじゃないかと思っています。
おそらく多くの人が感じていることですが、彼女の作品に出てくる人物はみな似ている、というか、より正確には、同じ水に浸った仲間のように見えてきます。それは、彼女のまなざしや生き方がすみずみまで浸透した心地よい水であり、現実と表象、過去と現在の区別もなくひろがり、悲惨な死や混乱に際しても均衡をいずれ取り戻す力を秘めた、治癒の空間です。望めば誰もがそこに入り、同じ月光、そよ風、荒れ果てた庭、そして青い空に繰り返し出会うことができる。その限りでは、『うたかた/サンクチュアリ』において繰り返される、登場人物たちの「運命的」な出会いもまた、得がたいと同時に、約束されたことだった気がします。
多少むりに一般化しているとはいえ、この作品を読んでいると、イタリアの詩人モンターレの、今では批判されることも多い有名な詩句——「ognuno riconosce i suoi(誰しも自分の仲間をそれと認める)」が思い起こされます。そんな特別な友愛の凝縮されたかたちが、『うたかた』における「嵐」と「人魚」(ふたりははじめ、兄妹ではないかと互いに訝っている)、『サンクチュアリ』における「智明」と「馨」の関係だと思います。少女漫画的な「王子様」への恋とは違い、もっと根本的な安心をもたらす、いつでも見つかりづらい、言葉にしがたい愛のかたちです。
彼女がこれだけ国際的に翻訳されているのは(イタリアは最も早い)、その救いのあり方の普遍性と平明さによっていることを、本書であらためて実感させられました。最初に述べたように、Amitrano氏の翻訳では、登場人物の情動が描写のなかに構築的に取り込まれていくので、その救いのなかに自分がいる、という感覚はよりいっそう強くなります。とても心地よい経験であると同時に、なんだかあまりに「旅行」のようです(「旅」ではなかった)。
そういえば、ルッカの共同部屋で知り合った二十歳の中国人は、ほぼ何一つ自分と共有するものがない、ここにはちょっと書けないようなパワフルな暮らしを送ってきた男の子でしたが、あるいは彼も、私を仲間と認めたんでしょうか(帰りがけにインスタは交換したけれど)。
彼の繰り出すイタリア語を必死に聞いているとき、こちらの頭からは、『うたかた』のことはすっぽり抜け落ちてしまいました。でも吉本ばななという人は、そういう風に自分が読まれ、読者が生きているということを知ったら、きっとすごく喜ぶ人なんじゃないか、そんな気持ちにもさせる伸びやかな一冊です。
