Cesare Pavese, I mari del Sud(パヴェーゼ「南の海」)

 パヴェーゼ(1908-1950)の生前唯一の詩集、『働き疲れて Lavorare stanca』の最初の一篇を訳してみました(1930年の作品です。死後70年が経過したため、著作権は切れています)。既訳もありますが(河島英昭等)、イタリアにいるため参照がかないませんでした。

 詩の舞台はパヴェーゼの故郷、イタリア北部のピエモンテです。「私」の従兄は、田舎にはめずらしく、世界中を飛び回った過去をもつ中年の男で、かつて冒険小説に憧れた「私」(パヴェーゼ自身を投影)は、彼をいまでも慕っています。「私」の子供時代、親類から忘れ去られたこの従兄が、ふと一枚の葉書をよこしてきます。それは「南の海」からの手紙でした。

 彼の小説を読まれた方はすぐ気づかれると思いますが、本作は彼の最初期の作品で、その後の小説のテーマが繰り返し立ち戻る基点となっています。ごく平明な、散文に近い筆致で書かれており、これは当代の詩潮からは大きく外れるものでした。本詩集は、第二次大戦後、イタリア詩が再び散文化してゆく過程を理解するうえで欠かせない参照点となっており、自分が最近この作品を読みこみはじめた理由も、そのあたりにあります。

 どこを切り取っても素晴らしいですが、とりわけ最後の二連がたたえるメランコリーに、追いつきがたい美しさを感じます。

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〈翻訳〉

南の海
(モンティに)

丘の中腹の夕べを私たちは歩む、
静かに。遅い黄昏の影のなかの
私の従兄は白い服の巨人、
ゆったりと動く、日焼けしたその顔、
無口のまま。黙ることは私たちの美徳だ。
私たちの祖先の誰かもそうだったはずだ
——愚者たちのなかの偉大なる男か、貧しい狂人か——
ひとえに彼がその子孫に教えた、大いなる沈黙。

私の従兄は今夜話した。私に尋ねた、
登ってみないかと。丘の頂からは
澄んだ夜、灯台の反映が
遠くに見える、トリノさ。「お前、いまトリノに住んでるのか…」
と私に言った、「…まあそうだな。人生を過ごすには
故郷から離れたところがいい。稼いで、楽しんで
それでまた戻ると、俺みたいに四十になりゃ
ぜんぶが新しいんだ。ランゲは、そのままなのにな」。
そんなことを私にみな語った、イタリア語は喋らず
彼は方言をゆっくり使う、それはこの丘の
石たちのように、とても荒らかで
二十年の外国語生活も数多の海も
それに傷をつけはしなかった。彼は急坂を歩んでゆく
耽ったまなざしで、私はそれを、赤子の頃にも見ていた
すこし疲れた農夫らの顔に。

二十年間彼は世界を廻った。
彼が去った時、私はまだ女たちに連れられた赤子だった
女たちは、彼は死んだと言った。それからもこんなことを
女たちが、おとぎ話のように喋るのをときおり聞いた。
男たちは、より深刻で、彼を忘れた。
ある冬、すでに亡くなっていた私の父に、葉書が届いた
港の船をあしらった、緑がかった大きな切手の
ブドウの収穫を祈る葉書だった。大きな驚きだった、
あの成長した赤子が説明したがった
このカード、タスマニアっていう島から来たんだ
ここより青い海に囲まれてて、サメがいる恐ろしい
太平洋、オーストラリアの南にあるんだよ。そしてこう付け加えた
そうさ、従兄さんは真珠を取ってたんだ。それから、切手を剥がした。
みながめいめいの意見を述べた、だがみな一様に
死んではなかったにせよ、いずれ死ぬだろうと言って終わった。
そしてみなが彼を忘れてから長い時間が経った。

おお、私がマレーの海賊ごっこに戯れた頃から
どれくらい時が経ったろう。私が最後に
あの死の淵へ泳ぎに下って
遊び仲間を追いかけて木に登り
大きな枝を折り、敵の頭を
かち割り、ひっぱたかれたあの頃から
どれだけ生が過ぎたろう。数々の日々、数々の遊び、
巧みにかわす敵たちの目の前での、数々の
血しぶき。思い、そして夢。
都市は私に、終わりない恐怖を教えた。
群衆が、道が私を震えさせた、
時には、ある顔つきに窺われるひとつの思いが。
まだ目のなかに感じる、何百万の街灯が
巨大な跛行を照らす、あのからかうような光を。

従兄は還ってきた、戦争が終わって、
巨人のまま、少ない人々のなかに。金をもっていた。
親類はしずかにこう言った。「せいぜい一年もしないで、
みんな食い尽くして旅に戻るさ。
やけになった奴ってのはそうやって死ぬよ」。

従兄の顔はきっぱりしていた。地階を
村に購い、セメントでガレージを作らせ、
その手前にはガソリンを入れるための燃えるようなポンプを
橋のカーブに沿って、ばかに大きな広告プレートを出した。
それから金を受け取る整備工をなかに据え
彼はランゲ中を煙草を吸いながらまわった。
そのうち村内で、結婚した。めとった娘は
外国人みたいに華奢な金髪だった
彼が世界中でいつか出会った女のように。
だが、彼はまだ一人で出かけた。白い服を着て
両手を背中にし、日焼けした顔で、
朝には市を踏み歩き、陰険な雰囲気で
馬の購入を交渉した。それから私に説明した、
計画が頓挫してから、というのも彼の目論見では
家畜をみな谷から駆逐し
人々にエンジンを買わせたかったのだ。
「だが一番の家畜」、彼は言った、「どの家畜より大きいのは、
考えてみると俺だった。知っていりゃあな、
ここじゃ牛も人間も同じ種なんだ」。

私たちは半時間以上も歩いている。頂上は近い、
あたりには風の衣擦れや遠笛がいや増してくる。
従兄がはたと立ち止まり、振り向く。「今年は
声明文にこう書いてやる——聖ステファノは
いつでもベルボの谷の祭では
一等でした——どうかそう仰せください
カネッリの方々」。そして急坂に彼はまた取り組む。
大地と風の香りが私たちを暗闇に包んでいる、
遠くに明かりらしきものが。酪農場、自動車の音が
かろうじて聞こえる。私は考える、
この男を私に戻し、海から、遠い大地から、
絶えない沈黙から引き剥がした力のことを。
従兄は成し遂げた旅のことを話さない。
どこどこへ行ったと手短に言うだけで
自分のエンジンのことを考えている。

ただひとつの夢が
彼に、血のなかに残されていた。彼は一度航行した、
オランダ漁船〈大クジラ〉の火夫として、
そして彼は見た、陽のなかを重い銛が飛び交うのを、
血の泡のなかをクジラが逃げるのを、
その後ろには尾鰭が持ち上がり、ボートと闘うのを。
時折そのことを彼は私にほのめかす。

   だが私が彼に
この地上で一番きれいな島々から朝陽を
見られたなんて幸せ者だと言うと、
その記憶に微笑み、彼はこう答えた——太陽が
昇ったとき、奴らにとっちゃ一日はもう老いぼれだったんだ。

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〈註〉

モンティ:アウグスト・モンティ(Augusto Monti, 1881-1966)。パヴェーゼの高校時代のラテン語・イタリア語教師。

ランゲ(Langhe):イタリア北部、ピエモンテ州南部に広がる丘陵地帯。パヴェーゼの故郷ステファノ・ベルボ Stefano Belbo 、詩中に出てくるカネッリ Canelli もその中に位置する。

マレーの海賊ごっこ i pirati malesi:エミリオ・サルガーリの冒険小説『マレーの海賊 I pirati della Malesia』(1896) を踏まえる。

彼は一度航行した、/オランダ漁船〈大クジラ〉の火夫として ha incrociato una volta /da fuochista su un legno olandese da pesca, il CetaceoCetaceoは「大クジラ」を意味するが、スカッファーイ(Niccolò Scaffai, 2023, 20) によれば、「草稿が明かすように、 ケタチェオ (Cetaceo) とはオランダ船の名である。したがって「ha incrociato」は自動詞であり、航海用語の「(商業目的などで)特定の海域を執拗に航行する」という意味で用いられている (『イタリア語大辞典 GDLI 』)。もっとも、パヴェーゼがこの文章の統語的な曖昧さを利用し、卓越した存在である「ケタチェオ(鯨類、あるいは白鯨)」との童話的な遭遇の記憶を呼び起こそうとしている可能性は排除できない」。一般にincrociareは他動詞「~に出くわす」の形で用いられるため、このような註釈が付されている。

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〈原文〉

I mari del Sud
                 (a Monti)

Camminiamo una sera sul fianco di un colle,
in silenzio. Nell’ombra del tardo crepuscolo
mio cugino è un gigante vestito di bianco,
che si muove pacato, abbronzato nel volto,
taciturno. Tacere è la nostra virtù.
Qualche nostro antenato dev’essere stato ben solo
— un grand’uomo tra idioti o un povero folle —
per insegnare ai suoi tanto silenzio.

Mio cugino ha parlato stasera. Mi ha chiesto
se salivo con lui: dalla vetta si scorge
nelle notti serene il riflesso del faro
lontano, di Torino. «Tu che abiti a Torino...»
mi ha detto «... ma hai ragione. La vita va vissuta
lontano dal paese: si profitta e si gode
e poi, quando si torna, come me a quarant'anni,
si trova tutto nuovo. Le Langhe non si perdono».
Tutto questo mi ha detto e non parla italiano,
ma adopera lento il dialetto, che, come le pietre
di questo stesso colle, è scabro tanto
che vent’anni di idiomi e di oceani diversi
non gliel’hanno scalfito. E cammina per l’erta
con lo sguardo raccolto che ho visto, bambino,
usare ai contadini un poco stanchi.

Vent’anni è stato in giro per il mondo.
Se n’andò ch’io ero ancora un bambino portato da donne
e lo dissero morto. Sentii poi parlarne
da donne, come in favola, talvolta;
ma gli uomini, più gravi, lo scordarono.
Un inverno a mio padre già morto arrivò un cartoncino
con un gran francobollo verdastro di navi in un porto
e auguri di buona vendemmia. Fu un grande stupore,
ma il bambino cresciuto spiegò avidamente
che il biglietto veniva da un’isola detta Tasmania
circondata da un mare più azzurro, feroce di squali,
nel Pacifico, a sud dell’Australia. E aggiunse che certo
il cugino pescava le perle. E staccò il francobollo.
Tutti diedero un loro parere, ma tutti conclusero
che, se non era morto, morirebbe.
Poi scordarono tutti e passò molto tempo.

Oh da quando ho giocato ai pirati malesi,
quanto tempo è trascorso. E dall’ultima volta
che son sceso a bagnarmi in un punto mortale
e ho inseguito un compagno di giochi su un albero
spaccandone i bei rami e ho rotta la testa
a un rivale e son stato picchiato,
quanta vita è trascorsa. Altri giorni, altri giochi,
altri squassi del sangue dinanzi a rivali
più elusivi: i pensieri ed i sogni.
La città mi ha insegnato infinite paure:
una folla, una strada mi han fatto tremare,
un pensiero talvolta, spiato su un viso.
Sento ancora negli occhi la luce beffarda
dei lampioni a migliaia sul gran scalpiccio.

Mio cugino è tornato, finita la guerra,
gigantesco, tra i pochi. E aveva denaro.
I parenti dicevano piano: «Fra un anno, a dir molto,
se li è mangiati tutti e torna in giro.
I disperati muoiono così».

Mio cugino ha una faccia recisa. Comprò un pianterreno
nel paese e ci fece riuscire un garage di cemento
con dinanzi fiammante la pila per dar la benzina
e sul ponte ben grossa alla curva una targa-réclame.
Poi ci mise un meccanico dentro a ricevere i soldi
e lui girò tutte le Langhe fumando.
S’era intanto sposato, in paese. Pigliò una ragazza
esile e bionda come le straniere
che aveva certo un giorno incontrato nel mondo.
Ma uscì ancora da solo. Vestito di bianco,
con le mani alla schiena e il volto abbronzato,
al mattino batteva le fiere e con aria sorniona
contrattava i cavalli. Spiegò poi a me,
quando fallì il disegno, che il suo piano
era stato di togliere tutte le bestie alla valle
e obbligare la gente a comprargli i motori.
«Ma la bestia» diceva «più grossa di tutte,
sono stato io a pensarlo. Dovevo sapere
che qui buoi e persone son tutta una razza».

Camminiamo da più di mezz’ora. La vetta è vicina,
sempre aumenta d’intorno il frusciare e il fischiare del vento.
Mio cugino si ferma d’un tratto e si volge: «Quest’anno
scrivo sul manifesto: — Santo Stefano
è sempre stato il primo nelle feste
della valle del Belbo
— e che la dicano
quei di Canelli». Poi riprende l’erta.
Un profumo di terra e di vento ci avvolge nel buio,
qualche lume in distanza: cascine, automobili
che si sentono appena; e io penso alla forza
che mi ha reso quest’uomo, strappandolo al mare,
alle terre lontane, al silenzio che dura.
Mio cugino non parla dei viaggi compiuti.
Dice asciutto che è stato in quel luogo e in quell’altro
e pensa ai suoi motori.

           Solo un sogno
gli è rimasto nel sangue: ha incrociato una volta
da fuochista su un legno olandese da pesca, il Cetaceo,
e ha veduto volare i ramponi pesanti nel sole,
ha veduto fuggire balene tra schiume di sangue
e inseguirle e innalzarsi le code e lottare alla lancia.
Me ne accenna talvolta.

           Ma quando gli dico
ch’egli è tra i fortunati che han visto l’aurora
sulle isole più belle della terra,
al ricordo sorride e risponde che il sole
si levava che il giorno era vecchio per loro.

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〈朗読〉

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〈付記〉

 1)以下のブログ(https://pavesenote.blogspot.com/2010/02/1.html)で、部分的に河島英昭などの訳と対照できます。とくに、会話の訳し方に違いがあります。最終連、河島先生は「でも、幸せなひとだ彼は/この世でいちばん美しい島々の上にオーロラが/懸かるのを見てきたのだから、ぼくがそう言うと/思い出に微笑みながら、彼は答える。太陽が/昇ったときには、一日はもう老いているのだ、と。」としていますが、自分はここは、どうしても直接話法で訳したくなります。

 2)冒頭で軽く触れたメランコリーについて。まず、「私」の感じる憂愁は、都市生活の疲労と、「遠く」への漠たる憧れ(空間的にも、時間的にも[「無口」な祖先])によるものですが、「従兄」のそれはむしろ、眼前の光景(ランゲの丘、捕鯨の様子、そして美しい朝陽)に常にある決定的な欠落、どんな旅を成し遂げても、けっして手にすることができないものへの郷愁です。クジラを仕留めるまでの興奮(血)のなかには、それを仕留めたとしても満たされない夢が、あらかじめ保存されている。美しい朝陽は、それに先立つ未明の仕事によって、すでに翳りを帯びている。そのように、いま見えるすべては、本当はすでに終わっているのと同じだ、という感覚が彼にはある。詩の冒頭にひろがる「遅い黄昏」は、したがって彼に最も似つかわしい時間ですが、それが最後の「朝陽」と異なるものではない、というところに、詩人の達観があると思います。

 詩のなかの「私」は、「従兄」のメランコリーをまだ知らない人物として描かれていますが、書いているパヴェーゼ自身は、それを(彼がいずれ知ることになることを)知っています。彼のこうした態度は、過去未来としての現在——あらためて、「私たちは歩む Camminiamo」という冒頭の適切さ——と言ってよいと思うのですが、しかしこの詩中で、動詞はけっして過去未来時制をとることはありません。かわりにこの詩は、現在、近接過去、遠過去の三つをたくみに織り交ぜて構成されています。

 僕はこの点に、「私」を経由したパヴェーゼ自身のメランコリーを見ています。第一に、「私」の憧憬は、けっして未来形では表記されません。それはいつも、「私」の観察の現在に潜在しており、読者はその欲望に気づくかもしれないが、「私」自身がその欲望を記述することはありません。第二に、パヴェーゼは表記のうえでは「私」の時間のなかに没入しているが、意味内容的には「私」の様子を客観視しています。ここでもし、詩人自身が過去未来を使って事柄を「説明」してしまえば、この表記と内容の亀裂は、けっして現れません。パヴェーゼが「私」と「従兄」を描きながら本当に伝えたかったのは、この亀裂をつうじて伝達される、彼自身の憂愁だったように思えます。

 要するに、本作は部分的に小説的な筆致をとってはいても、伝達される欲望自体は抒情詩的であり、またそうである以上、上に述べたことは単なるメタフィクションに還元できません(私見ですが、タブッキの小説群はこの点でパヴェーゼの系統に位置しており、後期カルヴィーノと区別される)。いずれにせよ、1950年に自死したパヴェーゼが、この最初期のモチーフに終生こだわっていたことは、『美しい夏 La bella estate』(1949) を読めば明らかです。この小説のヒロインであるジーニアとアメリアの関係は、「私」と「従兄」のそれにほぼ合致しています。

 パヴェーゼが自らに与えた「二十年」は、その憂愁にとどまるための時間だったのでしょうか。そう言いきるに足るだけの時間を、人は本当に持ちうるでしょうか。他人の「二十年」は自分の「二十年」より遥かに長い。少なくとも、この詩の「私」はそうであることを願っていたように映ります。



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