更新が間遠なのには理由があるのだが、そのどれもがとくに他人に読まれる価値をもたないので、ここには書かないことにする。ただ、このサイトを作った際の自分を見返すと、必要のないところに文章を書きこんだことがあまりないからだろう、たかが気晴らしのはずなのに、無理にそこに意味を持たせようとしていたことがわかる。今後、そういうことはやめようと思った。意味があるかということは、自分がどうしたいかということと関係がない。
Kindle unlimitedがKindle+にリニューアルしたおかげなのか、講談社文芸文庫の文芸評論が軒並み無料で読めるようになっていたので、最近は暇な時間によく柄谷行人を読んでいる。言わずと知れた『日本近代文学の起源』や諸氏との対談も面白いのだが、時評が収められている『反文学論』はそれとは違い、普通に読むと面白くはないけれども、読み手の心を落ち着かせるようなところがある。それは、自分(たち)が現代の本屋やSNSを覗くたびにいつも薄々感じている倦怠が、べつに現代に限った話でもなく、ある種の人々にとってはネットの開闢以前からありふれたものだった、ということをあらためて知らせてくれるからだろう。
柄谷自身あとがきに記しているが、この時期(1977-1978)彼の軸足はアメリカにあり、「ほかにやりたいことがあ」り、日本における評論家という役割への違和があり、つまりは文芸時評なる形式に身が入らない理由に、事欠かなかった。そういう仕事をつづけたせいで「最後には疲労感が残った」と言っている。だが、そうした執筆条件の問題は、彼が読まなければならなかったものが疲労をもたらした、という端的な事実なくして意味をもたない。もちろん、実際には、本当に疲労だけをもたらしたような作品は紹介すらされておらず、それを突き抜けて不快を催す作品が、彼の批判によってその価値を露わにするということではあるのだが、それにしてもこれらの文章には、ものを考えることも感じることもできない人間への、憎悪に近い退屈がにじみ出ている。それはけっして選民的なものではなく、自分をふくめて全方位に発散する、たとえば雨の日の満員電車でサラリーマンが発するあの鬱屈である。
すべてがいわば死んだ目で見られているので、そこで目に留まるものには、卑小だが根深い力がある。その力に、彼自身絡め取られかけているところもある。村上龍を取り上げるところなど、適当に書くつもりだったのが、逆に迫真になっているという感じを受けた。
たとえば、「内向の世代」とよばれる以前の、阿部昭や坂上弘の作品にある地味だが烈しいエネルギーはどこからきていたか、私にはいまわかるような気がする。阿部氏は旧軍人の父と精神病者の兄のいる「家」から、坂上氏は「朝の村」に書かれた帰化人集落から、たんなる都市中産階級の生活にはない”深さ”と”厚み”を得ていたのである。私は、彼らがもう一度そのことを意識的に考えるべき時期にきていると思う。
それがまだ意識されずに、ただエネルギーとして露出しているようにみえるのは、村上龍「海の向こうで戦争が始まる」(「群像」)である。実は、私はたまたまアメリカで「限りなく透明に近いブルー」を読んで、ひどく嫌悪をおぼえ、何も知らぬ友人に”A basically base novel based upon the base”を読んで気分が悪いといったりしたのをおぼえている。評家がこれをアメリカによくありそうな作品だが独創性があるといっているのを読んで、ますます不快になった。アメリカにこういう作品がないことだけは確実である。もちろん、それはすでにポルノがありふれていて、まともな作家の主題にならないということではない。私の嫌悪をかきたてたのは、この作品の想像力の質にあった。しかし、今度の作品を読んでから、私の嫌悪の”質”を考えなおしてみて、それはアメリカにいたときの私が触れたくなかったものをむき出しにしていたせいではないかと思った。
外国体験はおおむね、ひとがどんな資格で行くかによって決まってしまう。パリから帰って、「ヨーロッパの底知れない深さ」といった類のことを書いている文学者や知識人は、その世界の残酷さをみないように保護されているからにすぎない。たとえば、森有正はそのことをよく知っていたはずなのに、逆に幻影だけを拡大した、あるいは拡大せざるをえなかった人である。もしこの保護の外に出ようとすれば、われわれは文字通り「現実原則」に直面する。そこから後退すれば、日本とのアイデンティティに向かわざるをえないことはわかっていた。私が「限りなく透明に近いブルー」を読んだのは、まさにそういう時期である。
そこにあるのは、疑いなく”基地”の感受性である。そこでの外国との接触は自他を区別するというようなレベルにはない。フロイトの術語でいえば、それはイドの世界であって、「快感原則」がなんの抑圧もなしに露出している。私が抑圧せねばならなかったものがむき出しにされていたのである。
「海の向こうで戦争が始まる」は、この作家の想像力の根がどこにあるかを、第一作よりも明白に告げている。例えば”基地”の町では、戦争は、「海の向こう」であっても、動物が天変地異を察知するような鋭敏さで感受される。それは反戦的でも好戦的でもない、一つの「気分」であって、この作者の戦争への幻覚には、なにかふつうの作家とは異質な感受性がある。
二年半ほど前、ほかならぬ村上龍の町だからということで妻と佐世保に旅行に行き、彼の通っていた小学校の周りを歩きまわった。その記憶もあって、「限りなく」が「アメリカによくありそうな作品」だという評論に柄谷が著しく不快になったというのが、よくわかる気がする。アメリカに貫入され、そのことに内心では誇りを抱きアメリカに同一化しながらも、現実には基地の壁によって隔てられている、そういう特異な立場に置かれた者にしかあれは書かれえなかった、というようなことだろう。じっさい、佐世保で米軍基地を目にすると、もちろん住んでいる人はどうだかわからないが、もしはじめてそれを見る子供だったら、絶対に輝かしく見ただろうと思う。大きく、白く、立派であり、あんな建物は、そう日本では見ることがない。私はその日、基地の横に併設されている米軍専用の保育園で、黒人の子供が大きな母親の肩に抱えられているのを柵越しに見たが、その一瞬、基地が日本の中にあるのではなく、基地の外に日本があるのだ、と思わざるをえなかった。話を戻すと、つまりここで彼が言う「日本とのアイデンティティ」というのは日本だけの問題ではないので、そこにすでに入り込んでいる親密な存在としてのアメリカ、という厄介な問題に突き当たるがゆえに「触れたくなかった」のだろう。親密と言っても村上はそれに保護されたままでいる存在ではなく、だからこそ「イドの世界」がそこに開かれるように見えたのだが。


昨今よくイメージされるタイプとしての「文学」は、こういう題材を書こうとするか、あるいはそうしないまでも、そうした出自が病のように、それも大切な病のように滲んでくるというのが、普通のパターンであろうと思う。しかし、村上龍の文章には、兆候は至る所に散乱していても、それが病気にはつながらないという奇妙な性質があった。暴力や性を描いてもあそこまでいくと醒めている、みたいな言い方がされる理由も(山田詠美が言っていたはず)、根は同じところにあるのだと思う。たとえば『トパーズ』は精神病者の文体を模していたし、彼の作品には一般にそうした人物が出て来がちではあるが、それらが病として切迫感を持つことはない。柄谷の言葉を借りれば、自他以前の「快楽原則」が支配する場所には、苦痛はあっても病はないのである。彼を苛立たせたのは、そうしたエネルギー的な原則以外を排除してしまう、この作家の無意識の限界、もしそう言いたいのであれば才能であった、という気がしてならない。
村上はある時期から、人が現実をサバイバルするための文学に意識的に取り組んだ。しかしそれは、弱者を守る場所を文学によって作る、というようなこととは全く違った。邪推だとよいが、金原ひとみの村上龍追悼文が絶賛されているのを見るにつけ、このことを勘違いしている向きも一定数いるのではないかと不安に思う。彼にはなにがしかのイデオロギー的立場を守るという観念がなかったし、彼の文章に現れる弱者とは、エンパワメントの対象ではなく生物学的事実として弱い個体のことであり、それ以上の価値判断を彼はもたなかった。あるいはその判断を書くことを嫌った。個々の価値判断や状況分析の当否とはべつに(それらは様々なしかたで間違っていた)、書き方として、自分が見たものについてフェアであることを望んでいたのである。「快楽原則」に揶揄された単純な文法は、まさにそうしたフェアネスを保つために、彼が初期作からすでに、潜在的に選んできた戦術だったはずだ。「現実原則」の外から現実を描くことで、彼は現実をサバイバルの領域として意識化していったのである(こうした方法の先駆者としては、たとえば大岡昇平が思い出される)。村上が人を勇気づけてきたとすれば、それはそのラディカルに公平な態度が書き方へと結実していたからであり、したがって、「鮮烈な文体」とか、感覚に密着した描写だとか、マージナルな存在を取り上げたとか、社会的分析が緻密であったとか、そういうことはみな、外在的要素にすぎない。彼は、何も救おうとしなかった。その健康な態度に、あえて言えば、私も救われたのだと思う。
少年期にそうした態度の書かれた書物を一度経験すると、それは外界に向き合うときの動作の一環のうちに残りつづける。本来の意味で啓蒙的なものを、子供の頃の私は村上の文章のなかに見ていた。たぶん、私は本当には彼の文章を「文学」だと思って読んだことがない。彼自身の生とは関係のない、生きるための方法、その方法のための意識をそこに読んでいた。彼の死に私がことさら悲しみを覚えなかったのは、その戦術がいまも確かな手ごたえを保っているからである。
